千田好夫サロン


分けてはいけない、それが差別だ! とまず確認したい

「どうして障害者を普通学校へ入学させる必要があるのかわからない。」という文言で始まるはがきが、障害児を普通学校へ・全国連絡会の事務所に届きました(3月5日消印)。それには、「障害者には名誉なことかも知れないが健常者には邪魔で仕方ない。…お前たちはそうした健常者のことも考えて、会の活動をしろ。はっきり言って普通学校では障害者は邪魔で迷惑でやっかいなお荷物である…」とあり、「障害者はそれぞれの学校に行けばよい。反論があれば手紙をまっているから」で終わっています。
 このような本音とはいつもぶつかっているし、議論としてもレベルが低いので、正直あまり気にもとめませんでした。ただ、神経質な性格からか細かい字でびっしり書かれていることと、この種のはがきはたいていは罪の意識から匿名匿住所なのに、これには珍しく住所氏名が明記されているので「おや?」と思ったくらいでした。
 ところが、このはがきの差出人は「浦本誉志史」となっており、部落解放同盟東京都連に全国連絡会の方で確認したところ、浦本さんの名をかたる一連の「差別はがき事件」と同一の事件である可能性が高いことがわかりました。はがきは証拠物件として浦本さんに送り、全国連絡会は被害者団体として、今後事件の真相究明に協力することになりました。
 つまり、このはがきを書いた人物は、匿名匿住所にするような「かわいい」人物ではなく、他人を誹謗中傷し、その罪を他人になすりつける、しかもその他人がほかならぬ差別を受ける側だという、二重・三重の悪意に満ちた人物だったのです。部落解放同盟ホームページによると、被害総数90件以上、被害者十数人。「差別というのは本当にたのしい魔法のようなものでしょ」などと差別をもてあそぶ卑劣さです。
 さて、全国連絡会にきたこのはがきの内容は稚拙ですが、現在のぼんやりとした障害者への(差別)意識を表したものと言えます。主要には迷惑論で、1961年に文部省が次のようなパンフレットを出しているのと同じような内容になっています。
「…五十人の普通の学級の中に、強度の弱視や難聴や、さらに精神薄弱や肢体不自由の児童・生徒が交わり合って編入されているとしたら、はたしてひとりの教師によるじゅうぶんな指導が行なわれ得るものでしょうか。特殊な児童・生徒に対してはもちろん、学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません。
 五十人の普通学級の学級経営を、できるだけ完全に行なうためにも、その中から、例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行なう場所を用意する必要があるのです。
 特殊教育の学校や学級が整備され、例外的な児童・生徒の受け入れ体制が整えば、それだけ、小学校や中学校の、普通学級における教師の指導が容易になり、教育の効果があがるようになるのです。」(1961年(昭和36年)3月、文部省発行広報資料18)
 古い資料だけでなく、2000年12月22日の教育改革国民会議報告「教育を変える17の提案」でも次のように述べています。
「◎問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない
(1)問題を起こす子どもによって、そうでない子どもたちの教育が乱されないようにする。
(2)教育委員会や学校は、問題を起こす子どもに対して出席停止など適切な措置をとるとともに、それらの子どもの教育について十分な方策を講じる。」
と、障害児を含めた「問題を起こす子」を普通学級から排除しようとしています。このような姿勢が文部行政の基調であれば、それに従う役人や教師、その影響を受ける生徒の多くが、このような意識を持ってしまうのはしごく当然の事と言えます。
 この意識は、「ユダヤ人からドイツ人の純潔を守る」といったナチス・ドイツのユダヤ人差別抹殺攻撃と同じ構造になっています。純粋なユダヤ人やドイツ人など存在しないのに、わざわざ対比させて、こいつらがいるから俺たちが困るんだ、という図式にしているのです。そしてこのユダヤ人抹殺の前に、T4計画という障害者抹殺がありました。「障害者は働きもせず社会に寄生している。いっそ殺した方が本人の幸せ」と大きなパン焼き釜に放り込んだのでした。
 ところが残念ながら、ドイツに住むユダヤ人は身体的にも文化的にもドイツ人そのものであり、ドイツ人は同胞を自ら抹殺することになったのでした。障害者差別も同じ構造になっています。どこからどこまでが「健常」で、どこからは「障害」という区別はつけられないのです。
 しかし、注意すべきは、障害のある者とない者との違いを強調するのは、障害者差別と闘う側にもあることです。よく「障害は、ひとつの個性です」という言い方をします。「ちょっと歩くのが苦手なんです。それが僕の個性です」というと、なんかよくわかったような気がして「ああ、そうか」ということになりがちです。
 しかし、障害は決して「個性」ではありません。便宜的にそういう説明をするのはよくないことです。なぜなら、障害のある者・ない者がそれぞれ一緒くたにされてしまうからです。たとえば同じCPの子でもみんなそれぞれ「個性」が違います。障害の状況も結構違います。CPという診断名が同じにすぎません。だから、個性ということで障害を説明することができません。また、「歩けない(個性の)人は参加できません」と運動会で言われたくないですよね。
 また、ことさら障害のある者とない者との違いを強調するのも同様です。健常者はすべて差別者だとかいうのも事実に反しています。それぞれの障害には独自の文化があるというのも同じです。「文化」ととらえるなら、多文化的共存を考えるべきでしょうが、違いを強調するのに忙しくて、なかなかそこまでは議論が進まないようです。私にもそういう傾向がないとはいえませんが…。これに関連して、今回の文部科学省が打ち出した「障害の種別を越えよう」という特別支援教育の中で、それに逆行する国立久里浜養護学校を自閉症の特別支援学校にする計画が含まれていることを深刻に受け止めねばなりません。自閉症をことさら知的障害から区別し、自閉症の特性を「文化」ととらえようとする最近の傾向と無関係ではないでしょう。
 もちろん、この差別はがきのような差別という現実がある以上、考える順序としてまず違いを強調し、次にどうしたらそれが克服できるかと考えようとします。ところが、そのように議論を進めようとしても、先に述べたように違いを強調するだけになってしまいがちです。
 そうではなくて、議論の最初から、分けてはいけない、それが差別なんだということを確認したいと思います。つまり、障害は性別や老化と同じく人間存在のあり方における不可欠な要素の一つなのだということです。誰でも多かれ少なかれ障害を持っており、その程度も様々に変化するということ、ある人は他の人よりそれが目立っているにすぎないということ、その人を排除することは排除する人の存在も切りつめられてしまうことなどです。どのような場合に何がどの程度目立つのかは、その時々の社会的関係によります。たとえば、経済の悪化や戦争などがあると障害や老化が目立ってくるでしょう。そうなったら、隔離・抹殺されてもいいのでしょうか。しかもそれは目立つ順番にやられてしまいます。一番目立つAさんがやられると、次はBさんが目立つことになり、Bさんがやられると、次はCさん、Dさん…と続きます。笑い話ではなく、本当の話です。特殊学級には、表面的に障害のある子だけではなく成績が非常に悪い子も入れられて、普通学級の学力テストの平均を上げるために設置・運用されてきた歴史があります。
 これは障害者の例ではありませんが、ある外資系保険会社でリストラがあり、一番成績の悪い人から首になり気がついたら一番成績の良い人まで整理されてしまいました。まさか俺はやられまいとたかをくっているうちに、10人のうち9人までが職場を追われたのでした。最初から9人まとめて首にするぞといえば、どんなに会社を支持している人でもストライキを起こして断固闘うでしょうが、順番にやられると悲しいかなおとなしい羊の群と変わらないのです。それどころか明日は我が身を認識できずオオカミの手伝いまでする卑劣な羊まで現れる始末です。一番成績の良い人は途中で気がついてみんなに呼びかけて団結しようとしたのですが、二番目の人が裏切り、その人だけが残ったのです。
 私にも経験があります。その当時つきあっていた彼女と電車に乗っていたときです。あまりこんでない時間帯でした。会社員風の年輩の男が、つかつかと我々の座っている前にやってきました。そしてやおら私に向かってこう言ったのです。
「君のその足は原爆にやられたのかね?」
私はびっくりして、そんなにふけて見えるのかなあと思いながら、
「いや、これは赤ん坊の時の小児マヒという病気です」
と答えると
「隣の女性は君の彼女か? そうやって君たちは仲間を増やそうとしているのか」
私はびっくりし、かつあきれてしまいました。確かに彼女には見た目の障害はありませんでしたが、まさかそんなことを言われるとは。こちらがあっけにとられているうちに、その男はちょうど停まった駅で降りていってしまいました。
 差別というものが、本当に深く人を傷つけるのは、このように羊が同じ羊を食い物にすることなのです。その男だってとびきりいい暮らしをしているわけでもなく、会社では窓際にいたり子どもの進学や連れ合いとの仲に悩んでいるかもしれません。それが私なんかに毒づいて憂さでも晴らしているのでしょうか。
 このようなことを理解しようともせず、「お前たちは他人のこと(つまり障害の「ない」自分たちのこと?)をもっとよく考えてくれ。…障害者はそれぞれの学校に行けばよい」などと言うこの差別はがきの書き手は、次は自分の番になって、黙々とパン焼き釜の中に入るつもりでしょうか。
「盛者必衰の理を顕す」(平家物語)
 日本人は、状況は常に移り変わるものという観念から謙虚な姿勢を尊ぶ一面がありました。しかし、それが近頃の「自己責任論」に見られるように、弱い者はひたすら自分のとりようもない「責任」を追及されるという、ネオコン的風潮が強くなっているのは危険な兆候です。
 そうではなくて、どんな人でも様々な悩みを抱えているということをふまえるべきでしょう。その上で一人でも多くの人が一人の人間として豊かな人間関係をつくり、それを糧として、独力であるいは協同で困難に立ち向かう見通しが得られると考えます。

月刊むすぶ402号所収(ロシナンテ社)